革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

塾と保護者と子どもの教育

簡単な自己紹介

 突然だが、読者諸氏は、塾へ通ったことはあるだろうか。

 筆者は通ったことがあるし、じつは現在進行形で通っている。

 正確にいえば、筆者は小学校中学年の時分から中学生の終わりまで学習塾へ通い、主に文科省による学習指導要領に沿った学習に励んだことがある(いうほど励んではいないが)*1。また、今は講師として塾に通勤している。講師といってもたいそうなものではなく、パート‐タイム・ジョブとして週に一度、幼稚園児や小学生にお勉強の真似事を教えるというていどである。経緯としては、昨年、大学*2で出会った人間から、「予習等の準備が不要でありながら、時給がそこそこ良い」という触れ込みで個人経営の小さな学習塾を紹介され、ものは試しということで一度顔を出してみたところ、辞められなくなった*3ことから、現在に至るというものである*4

 ところでこんな独り語りはやめて*5、以下、本題に入ろう。

塾で働いて抱いた違和感

 筆者が数か月間、この学習塾で教えた体験を通じて、いくつか違和感を覚えたことがある。

 児童のあり方としては、たとえば、「正解」に拘泥し、誤った個所を消しゴムで消して書き直してまで丸つけしてもらおうとする傾向が全体的にあるらしいということだ*6。当座の学習の目的は、その場で問題に正解することではなく、(最低限、義務教育課程で必須とされている範囲の)リテラシィを身につけることであるという前提が、頭からまったくすっぽりと欠落しているのだ。これについて、いくら筆者が情理を尽くして諭したところで、児童らはかたくなに態度を変えようとしなかった。ゆえに今ではもう説得を諦めている案件であるが、おそらくは背景には、「正解することへの執着」を生むに足る構造的な要因――保護者からの承認、学級内での競争など――があると推察され、一筋縄ではいかないであろうと思われたこともその理由の一つであった。

 児童にたいする違和感はこの他にもあるが、それよりもむしろ、保護者の側においてこそ、より重大な問題を見出すことができるように思う。

 ある保護者は、小学生の子どもとともに、深更におよぶまで勉強に付き合っているのだという。まったく素直に受け取れば、じつに勉強熱心な児童であり、感心すべきことである、さらに、その保護者はなんとも子ども思いで慈愛に満ちた存在だろうかと捉える向きもあるかもしれない。

 しかし、筆者に言わせてみれば、これは教育としてあまりにも wack である。しかも、保護者のエゴに子どもが付き合わされているようにも思え(というか、児童の言動をみればそれが真なのは明らかだが)、慈愛もへったくれもないのではないかとさえ思ってしまう。

 このようなことを見聞きするにつけ、塾は現状として、子どもの学力を買う場ではなく、保護者が期待を消費し、安心感を買う場として成立しているとの確信が強まる一方である。

トンチンカンな保護者が考えていること

 どうしてこのような状況が起こってしまうのかというと、一つには、保護者のうちに、次のような考え方があるからだろう。

子どもを良い小学校に上げれば良い中学校に行かせられ、良い中学校に上げれば良い高校に、そして良い大学、ゆくゆくは良い企業に就職させられる。そうすればこの子の将来は安泰だ

 そしてここには、枕詞のように「子どもの幸せを願って」というパターナリスティクなフレイズがつくというのも補っておこう。

 そもそもこの考え方は、以下の点でクレイジィである。

  • 良い小学校に行けば良い中学校、そして良い高校、大学、企業へと進めるという考え方が誤りである。
  • そもそも、学校が「良い」とは何か? 本当に世間的に評判の良い学校が優れているのか? それはどういった点で優れているのか? という視点が欠落している。
  • さらに、子どもが「良い」学校に通え、「良い」企業に就職できたとして、それがその子どもの幸福に結びつくものなのか? という視点が欠落している。
  • また、保護者がそこまで子どもの人生設計をコントロールすることが、果たして正しいことなのか? 「保護者の責任」とはいうが、(繰り返しになるが)それが子どもの幸福に結びつくものなのか? という視点が欠落している。

 この他にも、「ネオリベ的価値観に塗れていて吐き気がする」といったものもあるが、割愛させてもらった。

塾は、というか保護者は、どうするのが良いか

 結局のところ、「そこに子どもの幸福はあるのか?」というのが大きな課題なのである。筆者の通塾経験からしても*7、小学校低学年の時期から塾でべつだん血のにじむような努力をしたりせずともそれなりの中学校に上がれたし、中学校から高校へ上がるときもさほど苦労をしなかった。大学受験ではさすがにつまづいて、一浪の末になんとか志望大に滑りこむことができたが、それでも、多くの高校生にとっては、そこまで苦労する必要のないことであろう。筆者が「勉強」を続けたのは、そこに興味を見出したからに他ならない。「勉強」の嫌いな人間でも、たとえばヴィディオ・ゲイムに集中力を注ぐことができるというような場合があるのも、その人間がヴィディオ・ゲイムに興味をもち、楽しみながらプレイしているからである。

 子どもの幸福と直接に連結させることはできないことかもしれないが、第一に考えるべきは子どもの興味*8を阻害しないことである。言い換えれば、保護者は子どもの興味を一番に尊重してやりさえすれば、必ずしも塾通いは必要ではない*9し、学業に励むよう助言する必要すらないと思っている。

 また、あまり大きな変化を求めない、より accessible な心がけとしては、「子どもに重圧と感じさせるほどの期待を感じさせるな」というものを提案したい。子どもは、保護者が思うよりも敏感に、その期待を察知するものである。創作においては、周囲の期待がプレシャとなって思い悩む子どもなどという題材は手垢がついたものとなっているが、それだけ普遍的で、傷跡の残りやすい問題なのだ。

 

 

*1:そもそも形態として「塾」と呼ぶべきではないものとして除外したが、高校卒業後に予備校へ通った経験もある。筆者の場合、「塾」とは名乗っていない予備校に通っていたので、なおさらである。

*2:このブ・ログ内で筆者は一切の素性を明かしたことがなかったので、戸惑われる読者もあると思うが、筆者は地方の大学生である。

*3:ハマったのではなく、はめられた。辞められないのは慢性的な人手不足によるものである。

*4:筆者のトゥイタ・アカウントを覗けば、毎週のように「塾バイトやめたい」のトゥイートを観測することができる。

*5:相対性理論夏至

*6:この記述には一つ落とし穴がある。筆者が勤務する塾に通う児童が所属する小学校に、一定の、そして強い偏りがあるという点だ。詳細は述べられないが、地域でも有名で、入学にさいして受験が要るような小学校が、児童の主要な所属先となっている。ここに書いたことのみならず、本稿全体が、そういったバイアスの影響を受けていることに留意されたい。

*7:他人の学歴(=学業上の経歴)を評価し、自身の経歴へ役立てたいと考える者にとって、以下の記事は必読である。

gendai.ismedia.jp

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*8:子どもの興味はそれらを取り巻く環境に影響を受けるだろう。いうまでもなく、保護者の日常的な言動や生活様式に大きく左右されるところである。したがって、子どもの興味についても、生まれついた家のもつ文化資本によるところが大きく、階級の固定化の結果が顕著に現れる末端でもある。つまり、ものごとを体験する機会はそもそも平等には与えられず、したがって、興味の対象も限られた向きにしか存在しえない。これは筆者の頭を悩ませる問題の一つである。

*9:子どもが自発的に「塾へ通いたい」と言い出した場合も、それがどのような動機からなのか、そしてそれが本心からなのかということについて、保護者は丹念に分析しなければならない。