革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

アルティクル

 近ごろハッとした話をしよう。

 といっても(ここで「といっても」などと留保をつけたがるのが、じつにわたしらしく、みっともないとも思うのだけれど)、「ハッとした」のが誰かといえばそれは紛れもなくわたしであり、それがインタネットの底を這いずりまわる読者諸賢にとっても同じくハッとする内容であるかなどということについては、まったく保証しかねる。真実、この共有不可能性があまりにも自明であるということに気づけば、いまここで留保をつけたことが二重の意味で莫迦らしく感じられてくる。しかしながら、その共有不可能性をめぐる短い問答こそが、今回紹介する「ハッとした話」の核心部分にかかわってくる。そう考えれば、どうして、このような枕も最悪ではないのでは、などと思ってみたりもする。

 ある年の夏だったか、かつての同級生と飲んでいたときのことだ。その相手――仮に S とでも呼ぶとしよう――は当時学部の 2 年生で(だから sophomore の S だ)、何やら哲学系の学問に興味があるらしいが、まだ駆け出しかそれ未満といった風情であった。話を聞いてみると、どうも美学とか芸術学とかいう分野に関心があるのだという。わたしは、哲学はサッパリの人間なので、それらが哲学に属するものなのかどうか、そうでないのなら、近いのか遠いのかといった基本的なことすら知らなかった。というわけなので、そのときは多少身を入れて S の話を聴いてみることとした。......しかし、残念ながら、記憶はそこで終わっている。正確には、会話の内容を詳らかには覚えていない。何しろ、がぶがぶと酒を飲みながらの議論(と呼べるシロモノであったならば)であったし、そこからそうとうに時間が経っていることもあわせて考慮に入れていただければ、むしろ、わずかでも覚えていることのあったほうが珍しいほどである、そうご理解いただけることだろう。記憶に残っていることがあるとすれば、わたしが S の学問的姿勢に疑問を抱いたこと、および、それにかんして S に力説されたことくらいだ。

 S に何と言われたのかは定かでないが、わたしが S にどのような疑問を投げかけたかということについては、今でも多少覚えていることがある。それは次のような内容であったはずだ。

「何を美と捉えるかはひとそれぞれであるはずで、そんなぐらついた足場で学問などできるはずがないのではないか」

 ことばの選びかたやニュアンスに大なり小なり異同はあるにせよ、おおむねこのような批判を、わたしは S にぶつけた。そして、それにたいする S の返答は、けっしてわたしを納得させるものではなかったはずだ。もしそのようであったならば、もう少し印象に残っていても不思議ではないだろう。いまのわたしには思い出せることが何もない。少なくとも、しばらく議論をし、結論の出ぬままに散会を迎えたこと、それもまた、たしかに思い出すことのできる内容のひとつである。

 それからしばらく経ったころのつい先日、S とは別の哲学系専攻の学生と飲む機会があった。学生といっても、今回わたしが話したのは大学院修士課程に在籍する者である。Master だから M とする(名づけの統一性のなさたるや)。わたしが気の置けない知己と飲むさいのつねとして、その場かぎりの適当な思いつきで喋ってしまう性質がある。くわえて、ついアルコホールを多量に摂取してしまうが、それが含有する特有の毒性(脳を粉々に破壊する)のために、後々になってその当時を振り返ろうと試みたとしても、十全には思い出せない可能性が高い。したがって、ここでもまた、不確かな記憶を頼りにテクストを書かざるをえないこと、ご容赦いただきたい。

 そこでは、記号表現における伝達の不完全性だとか、インタネットに書き込むのと対面で議論することとの質的な違いだとかに話が及んだが、流れで、いぜんに S と議論したようなこと、すなわち、「美の価値観が個人ごとに異なる以上、万人が共有する大文字の美のようなものを想定する学問研究のありかたは、不健全ではないか」みたいな話題が出た。正確には、話の流れで「そういえば、まえに知り合いと喋ってるときにこういう話になったのだが……」と、わたしが、なかば強引に引きずり込んだものなのだが。すると、M からは次のような示唆に富む発言があった。

「たしかに、何を美と捉えるかには個人差があり、したがって他者と美を共有することは不可能である。しかし、個々人が『これは美である』と感じているときに、精神がどのようなはたらきをしているか、そこに、多くの場合に共通する何ものかがあるという可能性は否定できない。万人において成り立つ理論の構築は難しいが、少なくとも何かしらの傾向があると考えることによってのみ、こういった学問は成立する」

 ここで提示されたのは、安易に普遍性を前提したり、それを追い求めたりするのではない学問のありかたである。わたしはつねづね、ひとつの普遍的視座から個別具体の事例を眺めていくしかた、そして、それが正しいという執着にも似た信念に存する傲慢さ(あるいはマチスモ)には辟易しているが、さすがに M は賢いようで、巧みにこれを回避している。そして、傾向を捉えること以上の成果を学問に求めないという割り切った態度は、じつに爽やかなものである。また、わたしにはこれがたいへん成熟した考えであると感じられた。

 冒頭に述べたように、このような考えかたは当然のものであるともいえ、何をいまさら、と思う読者もあることだろう。しかし、現にそれを理解せず、独り善がりな「学問」に突き進まんとする学徒もある。それはあまりにも悲しいことである。かくいうわたしも、漫然と生きているうちに、すぐにこれを忘れてしまうかもしれない。ひょっとすると、そうなることを予防するための備忘録として、わたしはこの記事を書いていたのだろうか。

 意図するところが伝わらないのは、往々にして、その意図なるものが、書き手のうちにおいてさえ不鮮明なままであるからなのかもしれない。