革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

汚染処理水の海洋放出に反対する

 2023年8月22日現在,福島第一原発からのALPS処理水放出が決定し,同24日にも海洋放出が開始されるとの報道がなされている.我々は断固としてこれに反対する.

 そもそも,福島県沿岸部をはじめとして,首都圏から遠く離れた辺鄙な土地に原発を造ってきた意味を問わなければならない.たしかに,原子力化石燃料を使用しない,安価でクリーンなエネルギー源であることは論を俟たない.なかには,賠償金含め,事故対応に巨額の費用を支払うこととなったとて,必要コストは火力発電よりも低いなどという試算も出ている.しかしながら,事故により現実にすみかを追われ,仕事や人間関係を失った人々にしてみれば,いくら現金を積まれたところで,喪失したものが返ってくるわけではない.いくら金を渡されたところで,多少生活にゆとりは出るかもしれないが,事故前にあった精神的な安定は取り戻すことはできない.「原発マネーで潤っていたくせに」などという暴論もあるが,あらゆる問題が金で解決できるかのように,あらゆる価値を金で置換することができるかのように考えるそのような言説は単眼的・短絡的であり,誤りであるといわざるをえない.もとはといえば,人口が過剰に密集し,地方からリソースを吸い上げながら肥大しつづけていった東京という一都市の成長を支えるため,その一点において,福島県沿岸という地の果てに原発は建造されたのである.なぜそのような土地に? 長距離送電による電力ロスを考慮しても,東京都内で人口が密集し,もっとも電力使用量の多い場所に原発を建造するのが合理的であるのに,なぜそれをしなかったのか? もちろん,原発にはリスクがあるからだ.「原発は危険である」.それが念頭にあったからこそ,都市ではなく地方に,中央ではなく周縁にリスクを押しつけた.暴力と資本をもって「未開の地」へと入植していった.それが都市的生活を謳歌してきた東京都民の豊かさの源泉であり,報われるべき原罪である.東京都民一人ひとりが,みずからリスクを背負って最終処分すること.それが最低限の責任の果たしかたである.

 我々は,かの汚染処理水がかならずしも直接人体へと悪影響を与えるものだとは考えない.しかし,それが海洋放出を赦す根拠となることはない.なぜなら,数値的基準がそれを赦しても,人の心がそれを赦さないからだ.このようなことを言うと,非科学的だ,反知性的だ,などと批判してくる向きもあろう.だが,このような主張は現実を直視しない者の言いがかりに近い.というのも,実際に「科学的に安全」とされた福島県産の農作物や海産物は,しかし消費者により決定的に避けられ,遠ざけられてきた.第一次産業従事者の収入は減少し,土地や作物の放射線量調査といったコストを強いられただけでなく,あらぬ誹謗中傷にも曝されてきた.この一連の風評被害は,科学による理論武装が人民の心にとっていかに無力であるかを示している.「政府の嘘」とか「市民は騙されない」とか,そういうレベルのことではない.2013年,安倍晋三は,福島第一原発が「アンダーコントロール」であると世界に向けて厚かましくも発信した.原発の危機管理的側面からいえば,たしかに安定した状態にあったのかもしれない.しかし,それでも人民の心が国家の制御下におかれることは一度たりともなかった風評被害はなくなったのではなく,事故じたいが忘却されたにすぎない.だから,これからALPS処理水の海洋放出がなされれば,当時と同様の風評被害が惹起されるのは必定なのだ.重要なのは,その問題にどう対処するかではない.国家が真に責任を果たすことなどありえない.政府としては補償や支援などと称して金をばらまくことを考えているのであろうが,それに何の意味があるというのか? 地元漁協は明確に反対の立場を表明している.とうぜん,政府からは「放出後にどれだけの補償をする用意がある」といった打診=懐柔はなされていることだろう.それでもなお反対しているのは,原発事故直後から今にいたるまで継続する風評被害の痛みと,国家の無力さ・無責任さを,身をもって思い知らされているからこそのことだ.だからこそ,汚染処理水の海洋放出などという愚挙に走ることは,絶対にあってはならない.どうしても海に放出したいのであれば,東京湾にでも垂れ流せばいい.自分たちが恩恵に与った原発の副産物なのだから,自分のところで処理するのが筋だ.これ以上福島に迷惑をかけるな.


230823追記

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