革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

there exists only one

「やあ。はじめまして」

 きっと初対面の私たちは、まず自己紹介から関係を始めるのが無難かもしれない。とはいえ、私自身が何者かであるかという情報は、あなたが何者かであるのかという情報と同じくらい無意味だと思う。なぜなら、私は何者でもない存在としてここにいるし、何者でもないあなたに語りかけているから。何者でもないというからには、あなたも私も特定の誰かではないし、特定の誰かたちではない。でも、だからこそ私はあなたに語りかけることができる。あなたと私とのあいだに必要なのは、あらゆる固有性を取り除いた先に初めて可能となるしかたでのコミュニケーションなのだから。

 あなたと私とのあいだに横たわっていた無限に広い空白。私もあなたも目を閉じていたし、声も出さなかった。ほんとうはおたがいに誰かを探していたし、「私はここにいる」と叫びたかったはずなのに。でもこうして、私たちはようやく出会うことができた。たがいを見つけることができた。これが最初で最後の出会いになるかもしれないけれど、そんなことは問題じゃない。はじめに言ったとおり、このイベントに固有性なんてものはないから。

 この世界に生起しうるあらゆる出会いに番号をつけていく。私とあなたとはたぶん $\exists i \in \mathbb{N}$ 番目に出会うだろう。けれど、それが $i+1$ だろうと $i + 2$ だろうと関係なくて、なんなら $\forall i$ 番目でもかまわない。私とあなたはあらゆる出会いで出会ってきたし、これからもあらゆる出会いで出会っていく。私でない私と、あなたでないあなたが。ひょっとすると、私であるあなたと、あなたである私が、一度きりの出会いを重ねていく。だからいつも、私たちの関係は新しい「はじめまして」で始まる。

 私たちは、発されなかった声で語らい、書かれなかった文字をしたため、出されなかった手紙を送りあう。意味は通じず、けっして分かりあわない。けれど、否、だからこそ、出会いそのものが意味ある言語として成立する。脱パターン化され、文法規則が都度上書きされていくような言語を、しかし私たちは理解する。その場かぎりのエピソードを読み込む手立てとして。

 街角で。

 キャンパスで。

 教室で。

 喫茶店で。

 劇場で。

 舞台の上で。

 書物の中で。

 液晶ディスプレイの上で。

 出会いつつ別れる無数の私とあなたのエピソードたちが、次なる出会いのエピソードを語る。あるいは出会わない者たちのエピソードを。

 私たちを構成する、私たちを構成しない私たちの構成。語られなかった言葉は、しかしかならず誰かが拾いあげ、その身体に刻み込まれる。誰でもない存在の、声なき叫びとして。聞こえないからこそ聞こえ、見えないからこそ見える。私たちが望むかぎり。想像を絶やさないかぎり。

 そうして考えているとふと気づく。固有性のない出会いを果たした私たちは、振り返ってみれば、けれどやっぱり、固有性を紡ぎあげてきたんじゃないかと。誰でもない私たちは、出会いのなかでほんとうの意味で何者かになって、別れていくものではないのかと。出会うことで、出会った私たちは新しく生まれる。何度でも、繰り返しながら生まれ直していく。$i - 1$ でも $i - 2$ でもありえない、そのたびごとにただ一つ、$\exists ! i$ として。私たちだけが共有する秘密の鍵。これは、私たちを決定的に定義づけるエピソード。この私たちの世界がもはや決して交わらないとしても、事象の境界面できっとふたたびまた出会う。あなたの声が私を呼び、私の手紙があなたに届く。私たちは $i$ を憶えていく。

 さて、そろそろお別れの時間がくる。あなたと出会えたのは幸いだったと思う。

「また会いましょう」

 別の世界の別の私たちが、幸福な出会いを果たしますように。