革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

まだ死刑にされていないだけの諸君へ

 このブログを発見し,訪れてくれた読者諸氏には,まずは歓迎の意を表したい.諸君がこの文章を読んでいるということは,すでに私はこの世に生を受け,有毒な文章をネットに書き散らすといった狼藉をはたらいたり,それを同じくこの世に生を受けた諸君が読んでいたりという惨状になっているはずだ.だから何なのかというと,もちろん諸君はいまの私と同じく人として生きており,人生を歩んでおり,あるいは生を謳歌しているだろうということにすぎない.そしてそれが,我々にとってもっとも重要な事実である.我々が息をするのも,水を飲むのも,夢をみるのも,生きているからこそできる芸当なのであり,生なくして命を燃やすことは不可能だ.

 我々はなぜ生きているのか? この質問は,「なぜ」が目的を訊ねるものである場合,哲学上の,極めて回答困難な問題となる.*1 それにたいして,「なぜ」が原因を問うているものであるとき,この質問への回答は比較的容易である.我々が生きながらえている要因を科学的,社会学的その他の背景にもとづいて答えることが可能であるからだ.その答えはとりもなおさず,我々が今なお死んでいない原因にたいする疑問への答えでもある.我々はなぜ死んでいないのか.死んでいてもおかしくはないのに,いったいなぜ? ここではこの問題を,制度の面から考えてみたい.

 私が暮らす日本とよばれる国家では,憲法によってあまねき「国民」が保有する権利が定められている.その第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

によって,「国民」には生存する権利が保障されている.そしてこれが,上の疑問へのひとつの答えであり,すなわち「我々=国民」*2が死なずにすんでいる大きな要因である.国家が我々の生を保障しているから,我々は生きていられるということだ.しかしながら裏を返せば,国家が我々の生を保障することをやめたとき,あるいはもっと強く,我々の生を許さないとしたとき,我々は生きながらえることができるのだろうか? きっと無理だろう.我々から生存権が奪われたなら,経済的に困窮している人々が生活保護を受けられるしくみは失われる.大きな病気に罹っても,一部の金持ち以外は高額な医療費を払うことができない.年金も受給できず,一生労働を強いられることになるだろう.苛烈な新自由主義が押し進められるこの社会にあって,なおも我々が生きながらえているのは,国家が我々の生を許可しているからだ.もとより我々の生は,国家のさじ加減ひとつで存続したり消滅したりするていどの存在でしかない.国家により生の管理されたこの社会においては.

 また,そもそも国家がすべての「国民」の生を保障しているというのはである.なぜなら,罪を犯したことで刑罰に服している市民は,最低限度の生活どころか,最低の生活を送らざるをえないからだ.自由も権利も制限され,刑務所で “臭い飯” を食べることになるのだ.「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」していても,その権利が刑罰によって制限されうるため,生存権は脅かされることとなる.その延長上には,極刑としての死刑が,現在の日本国では刑法において定められている.あらゆる権利,あらゆる自由の制限の極限には,生存する権利,この世界に存在する権利の剥奪が待ちかまえている.そしてその裁定は,(捜査機関や司法機関の複合体としての)国家の気分しだいで容易に下すことのできるもののひとつにすぎない.諸君が仮に罪を犯したことのないような善良な市民であったとしても,あるいは運命の糸が何らかの塩梅で絡み合うことにより,あるいは作為的に,兇悪犯罪者としての諸君の人生がいとも簡単にでっち上げられる.

 いかに煩雑な法的手続きを踏もうと,何度も,何時間も議論や検討を積み重ねようと,それを務める人間が絶対に間違えないなどということはありえない.だから,真に無実の人間が冤罪によって,それも捏造された証拠によって,死刑とされてしまう危険性は大いにある.でっちあげられた「証拠」で,袴田巌氏は危うく殺されかけたのだ.幸運にも最悪の結果は避けられたが,司法と検察が袴田氏から奪い去っていった時間は戻らない.いったいどうすれば国家は償うことができようか? 国家とは,かくも無責任な存在なのだ.

 したがって,そうした意味において,我々が現在生きていられるのは,我々がまだ死刑に処されていないだけだからである.

 なぜ死刑が存在するのか? それは単に社会的要請にすぎない.つまり大衆が,諸君が,極刑としての死刑の存在を望むからだ.死刑執行は諸君の娯楽である.被害者感情と復讐の物語にしか興味がない莫迦な大衆のエンタテインメントなのだ.捏造された憎悪の視線が自分自身に向かうこととなる可能性なんて考えもしないで.「悪人」だから,「罪人」だから,殺してしまえばいい.そんなあまりにも直情的な回路でしか物事を考えられない動物が,この島を埋め尽くしている.

 最後に,裁判員制度という莫迦の制度について触れておこう.これは,直情的な思考回路を有する諸君ら一般大衆から幾名かを選び出し,その回路の性能を十二分に引き出そうというものだ.その結果,第一審では「兇悪犯」にたいして軽率に死刑が連発されることとなった.*3 控訴審以降においては,このような裁判員なる一般人の出る幕はなく,相対的に莫迦ではないと思われる裁判官が罪を裁く.これにより,地裁の死刑判決が高裁以降にて破棄されるという事例が多数発生した.もちろん,死刑判決のみならず,第一審の判決が覆される割合はかなり高く,制度そのものの必要性が問われる事態となっている.*4

 一度失われた命は帰ってこない.それは,国家により殺された人間とて同じことだ.命に軽重はないという平等主義は近代市民社会の原則ではなかったか.いうまでもなく,市民による市民の殺人は許されない.ならば,それと同等以上に許されるべきでないのが,国家による市民の殺人,すなわち死刑である.このような国家の暴挙を看過し,あまつさえそれを讃美しさえすること,それは我々じしんが殺人を犯していることに等しい.我々には,国家に殺人を委託していることにたいする重大な責任がある.我々は,かくも醜く不合理な制度をいまだに存置していることを恥じ,一刻も早くこれを取り除くことへと歩みを進めなくてはならない.まだ死刑にされていないだけの我々に与えられた猶予.これを有効に使うことができるか否かは,我々の決意しだいだ.

*1:もちろん,目的などないと答えるのが,シンプルながらひとつの真理であろう.

*2:この等式のグロテスクさには註釈をつけなければなるまい.吐き気をもよおすほどの嫌悪感を抱きながら.

*3:「とりあえず死刑にしてみた」とのたまう「少年裁判長」と本質的に大差がない.

*4:安倍晋三を討ち取った山上徹也さんの罪を裁く裁判が,裁判員裁判にて開かれる見通しとなっている.安倍と統一教会との関わりも糾明されてきたなか,裁判員らがどのような判断を下すのか,刮目に値する.