革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

ブログ開設に寄せて

 まとまった文章を書く必要がある。今、そう感じている。とくべつ、何か特定の内容を書きたいと思っているわけではない。また、既存のメディアにうんざりしきっているわけでもない(していないと書くと嘘になる)。ただ、何かしらの文書を書く必要があるとだけ、漠然に感じているのだ。Twitter に投稿するような脈絡のありそうでない、ちょっとある短文ではなく、何かしらの目的をもってまとめるような会議用のレジュメではなく、自己顕示欲を満足させるためにどこかに寄稿するようなフォーマルなものでないテクスト、とりとめのないエッセイ。そういったものを書かなければいけない気が、なんとなくしているのだ。だから、よくよく考えてみたら、そんなことはないのかもしれない。時間と労力の無駄でしかないのかもしれない。しかし、いまここにある、そして、来たるべき停滞を、なんとかして意味のあるかたちで残しておくことは重要であるとは思っている。そのような背景を踏まえたうえで、なんとなく書きたくなったときに書くべきもの、否、書いてもよいもの*1、それらを掲載する媒体を、とりあえずインターネット文化において長年の実績により一定の地位を獲得してきたシステムであるところのブログにおいて、今さらながら探索してみたく思う。

 ブログには、どこか人を引き付ける側面がある。もしかしたらそれは、ブログそのものの価値ではまったくなく、むしろ書き手の資質によるものであって、私が観測してきた範囲において上のように帰納するのは、サンプルに偏りがありすぎると結論付けるほかないものであるのかもしれない。しかしながら、個人が書き溜めた膨大な分量のテクストが発する濃厚な私的空間性や、その反面、思いのほか他者による引用が盛んであり、風通しが良いという相互参照性といった、かならずしもブログという仕組みそのものに内在しないかもしれないところの特徴は、それが遂げた文化的発展の独自性を端的に示すものであり、それはそれで良いものではないだろうか。

 それはさておき、本ブログの指針(あるいは目標)を、最初にポストする記事であるところの本稿において、掲げておこうと思う。とはいえ、先ほども書いたが、私にはあらゆる判断が「なんでもかまわない」であるべきであるだと思う、というか思わざるをえない*2ので、それを本ブログの指針としてみることとしてみたい。それに際して、これを指針とすることにより排除されうるであろう記事、たとえば、「A は不可欠/不要である」などといった明確なテーゼを論調とするようなものにかんしても、「いやいや、かまわない」としたい。これはたしかに論理的には明らかに矛盾であり、一貫していない*3。さらに、リベラルな視点からしても厭われるような態度であることはたしかである。例を挙げるならば、表現の自由を守るべきだという論点を持ち出したところで、憎悪を煽動するような、そしてそれを正当化するような言説は認められるべきではない。無際限の寛容さは系の秩序を無化し、誰もが容易に互いに傷つけあうことが可能な社会であることの肯定につながる。

 しかしながら、ここで述べていたこと、すなわち、本ブログの指針というものにかぎっていえば、政治的正しさという面において、私は私自身を信頼しており、むしろ、そこから逸脱することの方が難しいように思う。したがって、私はこの陥穽だらけの指針が問題ないものであるとして、とりあえず、とりいそぎ、とってつけたように、定めることとする。

*1:後述するが、「なんでもかまわない」ので。

*2:機会があればこれについても書くであろう。

*3:もっといえば、これを指針に据えるということにより、他の指針の選ばれる可能性を消去してしまっているという点で、「かまっている」。