革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

日本語(D)と日本語(B)(あるいは無数の日本語たち)


以下は、1年以上前に下書きに残していた文章である。ここしばらくはブログに何かを投稿しようという気にならなかったので、ログインもせずにずっと放置してしまっていた。供養というわけでもないが、テクストは日の目を浴びることではじめて意味をかたちづくり、評価されるべき対象へと格上げされるのであり、あるていどのまとまった分量が書かれていた以上、これを世界に向けて放流しないことは、これらの文字列にたいしてあんまりな仕打ちであると考える。したがって、未完成の拙文ではあるが、そしてこれ以上加筆する意志もないが、ここに公開することとする。


 先日,あるトゥウィートを見かけてたまげた.これである.

念のため以下に引用する(原文ママ).まず,

拡散希望

終結果が信じられないので勝手に再掲

という前置きの後に,以下のような情況設定がなされている.

Aの身長は150cm

Bの身長は155cm

Cの身長は160cm

Dの身長は165cm

Eの身長は170cm

そのうえで,次のような質問が,トゥウィタのアンケート機能をつうじて投げかけられる.

この5人の中で、Cの次に背が高い人は

  • B

  • D

  • どちらにも解釈できる

  • 日本語がおかしい。解釈できない

そして,その結果は

  • B:41.6%

  • D:45%

  • どちらにも解釈できる:10.9%

  • 日本語がおかしい。解釈できない:2.4%

となっている.

 結果をみると,半数近くの投票者が「D」を選び,それらは「B」よりも多数派であったということがわかる.「どちらにも解釈できる」「解釈できない」を選んだ者も合わせれば,「B」を選ばなかった人間が 6 割近くあるということになる.

 いうまでもなく,正解は B である.まず,「次に高い」という表現には,4 人を背の高さでソートし,高い方から順位をつけるという前提が含意されている.ここでは C(160 cm,高い順の第 2 位)を基準として,それよりもひとつ順位の低い者は誰かというのが問題になっているため,答えるべきは B(155 cm,高い順の第 3 位)となる.

 例を挙げるのがわかりやすいだろう.

上の文は理解できるはずだ.であれば,けっして

  • 「K2(8,611 m)の次に高い山はエベレスト(8,848 m)だ.」

とはならないことも納得できると思う.

 D を選んだ者からも,さまざまな「解説」が寄せられている.どれも独創的で,愛すべき非凡さにあふれているが,私に理解できるものはなかった.それらに共通しているのは,どうやら雰囲気で文を解釈したり独善的な発想で質問を処理したりしているらしいことであった.たとえば,「身長順で並ぶといったら低い方からでしょ」とか,「A, B, C, D と並んでいるなら C の『次』は D だ」といった謎の思い込みにもとづく誤答が多いようだ.

 正直なところ,これくらいの日本語を理解できないのはまずいし,B を選べなかった者は文章を読んだり書いたり,試行錯誤する経験をもうちょっと積んだほうがよいとは思う.ふつうにヤバいでしょ.しかしこれもじつは根深い問題であり,そもそも個々人が責められるべきものではないだろう.というのも,我々が日本国で受ける教育が,子どもに最低限のリテラシを身につけさせることすら放棄しているからだ.強い言葉を使うのが許されるならば,このような教育は人権侵害にほかならないといえる.そういった事情を踏まえても,義務教育期間を終えた人々にたいしていまさら教育がどうこうすることもできないので,まぁ,次の世代へと期待したいところである.

 閑話休題.いよいよ本題に入ろう.私がこのアンケート結果を見て考えたのは以下のようなことである.すなわち,B 派と D 派はいずれも「日本語」を使用しているつもりでも,じつは本質的に別の言語を使っているのではないか? 文法・語彙・音韻の多分に共通した部分をもちはするが,ここで「次に背の高い」問題で可視化されているように,根源的に分断された別体系の言語なのではないか? 「次に高い」によって指定される対象が基準よりも低くなる言語体系を「日本語(B)」,それよりも高くなる言語体系を「日本語(D)」などとよぶことにしよう.どちらも「日本語」とよんでも差し支えないほどには似ている言語ではあるが,それらはぜったいに相容れることがないのである.このアンケート結果が示しているのは,ここでの「日本語」話者の多くは日本語(D)を話し,それよりも少数が日本語(B)を話しているということである.こうとらえれば,どちらの選択肢を選んでも「間違い」ではないということになる.なぜなら,それぞれが正解となるような言語体系を,各々が生きているからだ.ほかにもいろいろな切り口がありえることもかんがえれば,けっきょく,日本語話者の数だけ無数の,けっして交わることのない言語体系たちが,暴力的な包括によって「日本語」なるひとつの言語とされているというのが実のところではないかとさえ思う.

 これを敷衍すれば,共通の「言語」なるものは存在せず,われわれは各人が好き勝手な鳴き声で鳴いているだけの生き物にすぎないのかもしれない,などという考えも湧いてくるが,それはまた,別の機会に.