革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

インタネットを蠢動するおまえたちへ(1)

 じつは、わたしにも世の中の動向を知る技術が多少あり、したがって、知りたくもない情報を知ってしまう危険性につねに晒されていることになる。ちょうど、わたしたち全員が、宇宙や大地からやってくる放射線を浴びて、遺伝子の変異するリスクに直面させられているのと同じく、恒常的のものである。そして同様に、同時に、大部分はとるに足らぬものでもある。わたしたちの生活には、いつでも、些細な問題が待ちかまえている。問題は、その問題が複数形である、つまり、それらの問題であるという点に尽きる。しかも、相当程度の甚だしさをともなった複数性であり、ようするに、それらの問題は、ひじょうに多くの問題なのである。それらひじょうに多くの問題は、一つひとつは些末ながらも、あるいは依存しあいながら、あるいは独立を保ったまま、同時に複数の方向から攻撃を繰り出してくることで、わたしたちのキャパシティを圧迫する。わたしたちを弱体化させ、いわゆるキャパ・オーヴァ状態へと導く。それはもう、再起不能なまでに、わたしたちの心身を破砕していく。数多の源流から注ぐ小規模な水流は、合わさったり離れたりを繰り返しながら、最後にはみごとな大河を形づくり、大海へと至る。すべてを飲み込む、破滅という名の海へと。

 日常、問題などを感じず、不自由なく生活することができているという者もあろう。そういう場合には、そうだな、賞賛のことばでもかけてやるとしよう。おめでとう。君はこの世界の勝者だ。しかし、残念ながらここには、クリア後のお楽しみなどは用意されておらず、単調な日々が永遠に続くだけである。もしよければ、別のゲイムに移ったらどうであろうか。今すぐにでも。

 話を戻そう(そもそも、本筋が存在するのかが疑問だが)。わたしたちは、塵の積もってできた山に押し潰されているということであった。ここには、なぜ、トゥイタという現代的でアクセシブルなインタネット・トゥールを手にしながら、わたしはいま、こうしてブログなどという旧時代的なサーヴィスにてテクストを投稿しようとしているか、という疑問に関連することがある。というのも、何を隠そう、トゥイタを、トゥイタのタイム・ラインを閲覧すべきでないやむにやまれぬ事情があるのだ。冒頭に書いたとおり、トゥイタをはじめとするインタネット・サーヴィスを利用し続けていれば、ごく当たり前のように、途方もない量の無益な情報、非-本質情報に出っくわしてしまう可能性に満ちている。そしていま、どういうわけか、その無駄で知りたくもない情報のうち、特定のものが取り沙汰されている。それも、過剰ともいえる頻度で、異常ともいえる執着で。わたしはそんな情報を目や耳に入れたくない。飛び込む前に溺死すると知っている急流に飛び込む趣味はなく、飛び込む前に轢死すると知っている線路に飛び込む嗜好はない(いまは)。したがって、トゥイタに足を運ぶ気にはなれないし、同様にフェイスブックにもアクセスしようと思えない。もとより、フェイスブックに頻繁にアクセスしたりキラキラした写真を投稿したりする人間の気はしれないが。

 そのような無駄な情報に踊らされ、日々の生活を阻害されるのは、あまりにも莫迦げたことだ。原則的に、そんなものは拒絶すべきなのだ。

 この状況において、インタネットを蠢動するおまえたちに伝えたいことは、以下の一点のみである。

  • どうでもいい情報に沸き立つな。

 ちょっとは静かにしたらどうだね。莫迦どもが。