革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

倫(みち)なき道をいくために――インタネットを蠢動するおまえたちへ(5)

 芸能人,有名人の恋愛事情はしばしばニュースをにぎわせる.毎日,どこかしらで,誰かしらの事情が暴かれる.そして例によって,それをうけたあなたがた “一般の” ひとびとが騒ぎ立てるわけであるけれど,他人の恋愛に興味のないわれわれのような人間にとって,これほど不毛で不愉快な騒ぎはない.とりわけ,それが「不倫」と呼ばれるような形態をとるある種の関係性のこじれであるようなばあい,あなたがたの狂乱は頂点に達する.われわれがそのとき,どんな顔でその場をやりすごそうとしているのかときたら,あえて描写するにはおよぶまい.

 第一に,他人の恋愛は他人の恋愛である.たとえあなたが当該有名人の友人や近親者だったとしても,はたまたこの国の司法当局の人間だったとしても,あなたが彼らの他者である以上,他者のあなたがそこに介入する資格も,その必要性もどこにもない.彼らの関係がどんなものであれ,その関係性に問題があるということに彼ら自身が認識しているのなら,それに関係している当事者のあいだでのみ解決すればよいだけの紛争であり,第三者が騒ぎ立てる筋合いはない.そこに介入する言説は,あるいはよき助言となる可能性もあろう.しかし,内実を理解しない部外者からの物言いというものは,えてして的外れで,目障りで,はた迷惑なものとしかならない.それだけならまだいい.問題は,謎の執着でその関係者をバッシングするような言説が,かならず現れてくることだ.それはまったくいわれのない誹謗中傷であり,非難者がみずからの溜飲を下げるためだけになされた発話である.いうまでもなく,そのような発言は,別の傍観者のうちにおいてもまた暗い情念を誘起し,ますます騒ぎを拡大するという結果しかもたらさない.その種の言説はやがて “世間” を構成し,しまいには当該有名人の心身を攻撃する.批判者は,そんなことを望んだわけではなかったと言うかもしれない.あなたは,自分自身のストレスのかっこうの捌け口を見つけてしまったが最後,その心の裡を吐露せずにはいられなくなってしまうだけなのだ.会員制短文投稿サイトで.その結果がどこに行きつくかなんて,そして発言にともなう責任のことなんて,考えもせずに*1あなたは彼らではないそして彼らもまたあなたではない.騒がず,かまわず,平静に.

 第二に,「不倫」という問題そのものを問い直すべきだ.不倫とは,「倫」すなわち道徳にはずれたおこないということであるが,そこで問題とされている道徳とはいったい何なのか.これは,近代日本で制度的に構築されてきたモノガミーを,金科玉条のようにありがたがる態度でしかない.人類の歴史において,モノガミーはけっして普遍的なものではないし,いつでもそれが最適の関係性だと示されているわけでもない.近代日本における天皇制が一夫一婦制を選択したため,それに倣って法制度を定めた,さしずめそんなところであろう.道徳なんてものは,その時々の権力者が人民を支配するのに便利な方便を寄せ集めたものでしかない.あなたがたは,道徳を,規範とされるものの見方を,もう少し疑ったほうがよいのではないか.固定観念に縛られ,自分自身の幸福のかたちを見失ってはいないか.それは,ひとそれぞれに,生きかたの数だけ異なったしかたで存在するはずのものであり,社会がかくあれかしと命令する “理想” に囚われる必要なんてない.誰か一人のパートナとしか繋がらないことがそれほどまでに,部外者が騒ぎ立てるほどまでに重要なのか.当人たちで愛のありかたをその都度定義すればいい話ではないのか.道徳はあなたの人生の可能性を隠蔽しているのではないか.既存の規範に異議申し立てすることをつうじてしか,あたらしい幸せのかたちは見えてこない.これは,大きな物語なき社会において,かならずや生存のすべとなるだろう.別の世界アルテルナティーを想像せよ*2

 われわれには,有名人の恋愛事情に振りまわされている暇なんてない.来るべき世界の構築に向けて,一刻も早く,想像することを開始しなければならないのだから.

*1:ここでは「不倫」とそれにともなう誹謗中傷について書いているけれど,インタネットの暗い情熱がもたらす予想外の結果は別のところでも現れる.例えばそれは司法の場においてである.ある事件の容疑者の名が報道されるやいなや(実名が報道されなくとも),その人物の家族構成やら個人史やらといった個人情報が根掘り葉掘り暴かれ,無数のインタネット・ユーザにより徹底的に中傷がなされる(いわゆるネット・リンチ)(そもそも,逮捕された段階では刑が確定していない.にもかかわらず,容疑者はあたかも犯罪者のように名指しされ,処刑されるべき存在であるかのように扱われる.これは人権擁護の観点からしてありえない.マスメディアにも責任はあろうが,それに便乗し,日々の鬱憤を晴らそうとする人々も相当程度愚かである).そんな現象がここ数年何度も起こっている.この過剰ともいえる私刑は,裁判における量刑の判断に影響をおよぼす.すなわち,ネット上で繰り返し批難されたり,報道が過熱したりすることによって,「被告人はすでに十分な社会的制裁を受けている」という事実が認定されることだ.一般人が「死刑にせよ!」と騒げば騒ぐほど,そのこだまは裁判官の告げる刑罰を軽くするという皮肉な構図が浮き彫りになるのだ.

*2:私じしんについて述べるなら,特にポリアモリーというわけではない.ただ,ポリアモリーは社会構築的に性的少数者へと追いやられた存在であるという事実は受け止めるべきであると考えている.また,「不倫」が問題となるのは,道徳なるものに反するからではなく,当事者間で定めた約束を反故にし,相手の信頼をそこなったという一点のみにおいてである.はじめから複数人を愛するつもりであることを伝えて,関係者がそれに納得できるかどうか.その合意と関係性の構築こそが,多様な生きかたへの鍵であろう.