革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

それが(あ|い)るということについて――あらがいのデクララシオン

 ふと,「ある」と「いる」の違いって何だろう,と思った.古い文章だとか,それらを模して書かれたかのような最近の古風な文章ではよく,「(人物が)ある」という言い回しが使われているのを見る.一方で,現代の “自然な” 日本語では,ほとんどの場合「(人物が)いる」と書くところだろう.これはよく知らないけれど,たぶん日本語学習でも「ある」「いる」の使い分けは厳密に教えているのではないだろうか.というのも,私の知る日本語の非第一言語話者(留学生で,かなり流暢な日本語を使う)が「『いる』と言うべきところを『ある』と言い間違えたのですかさず言いなおした」というような場面を見かけたのは一度や二度ではないからだ.なんとなく,訓練を受けてきたんだろうなあと感じた.伝統的な日本語では「ある」でよかったところを,「いる」としなければ不正解,そんな風潮もまた,日本語教育を受けてきたものとして感じる.

 私は別段,伝統を重んじる性向ではないし,むしろそれは疑っていきたい信条の持ち主ではあるけれど,それは別として,言語に正解/不正解を厳密に求めるような空気—―画一的な試験でゼロイチの成績を与えるように設計されてきた日本語教育の弊害といってもよいだろう――もまた,手放しに受け入れるべきではないと考えている.漢字一つとっても,あるものには多数の異体字があるし,送り仮名だってそうだ.送り仮名にもゆいいつ絶対の正解なんてないことは,古今の本を読む者にとってはとうぜんに知られていることだろう.言語には,学習指導要領でカバーする範囲にはとうてい収まりきらない豊かさが含まれている.もちろん,統一された言語体系をすべての学習者に修得させるという目論見にも道理はある.各自がてんでんばらばらな独自言語を書いたりしゃべったりするような社会では,意思疎通が困難になってしまう*1識字率を向上させるため,言語の面でひとびとが疎外されてしまう悲劇をできるかぎりなくすためには,画一化された言語教育は効果があるには違いない.しかし,そのような教育プログラムによって,言語の豊かさだったり,のびのびと文章を書くことの愉しみを学習者に伝えることができないのであれば,それもまた悲劇ではあろう.識字率が高くなろうとも,文字や文学に親しもうという学習者を増やすことができなければ,まったく画竜点睛を欠くというものである.小説でも論説文でも,文章を読んで書くことは,技術としても趣味としても,人生をより善く生きるということに直結することなのだから――.

 とまあ,前置きというか愚痴はこんなところにして,本題に入っていこう.ある対象が「ある」であるか「いる」であるか,現代日本語の範囲ではどのように使い分けがなされているのだろうか.「現代日本語」なんていうとおこがましい.私じしんがどう使い分けしているだろうかと考えてみた.というか,考えざるをえない,というのも,私は現代日本語のすべてであるわけではとうぜんまったくなく,私の体得したかぎりの “自然な” 日本語しか,私には語ることができないからだ.これは,「社会通念」であったり「常識」を個人が語ることの不可能性につうじる問題であるが,それはまた別の機会に書くとしよう.

 まず,「いる」のほうから考えてみる.もちろん,私はいるし,あなたはいる.誰か知らないけれど,あのひとはいる.人間はいる.さらに,猫はいて,蜘蛛もいるし,ばい菌はいる.ウイルスもいる.ウイルスは細胞に寄生するけれど,「細胞はある」だろうか.でも,卵細胞や精細胞なんかは,情況によっては「ある」とも「いる」とも言えそうだ.このあたりに一つの境界が横たわっているようである.

 ところで,浴室のカビは,「いる」でも「ある」でもなく,「生えている」ではないだろうか.広範囲に広がっているものを「ある」というのはなんだかしっくりこない.カビ取りをしていて,一部に残っているものを指す場合には,「まだここにカビがある」と言えなくもないかもしれない.虫の駆除だとか,殺菌消毒なんかでは,「まだここに残りがいるかもしれない」と言うだろうから,カビはそれらとはわけが違うらしい.

 次に,「ある」が使われる例を見てみよう.パソコンはある.机はある.家はあり車はある.草木はある.動物は「いる」でも,植物は「ある」.カビの例でもわかるとおり,生物だからどうこうというわけではないのだ(まあ,もっといえばウイルスは定義上生物なのかという話もあるが,あまり重要ではないだろう……).そもそも生物でない物体はおおむね「ある」だろう.特に動かない物体は.ただ,例外もたくさん考えられる.「路肩にはタクシーがいる」.なるほど,バス停にバスがいるし,上空にはヘリコプタがいる.どうやら,それじたいでは「ある」であるようなものが,状態によって「いる」と言える例があるらしい.また,掃除機は「ある」でも,お掃除ロボットは「いる」だろう.ロボットだのアンドロイドだのといった機械は「いる」が使用される.

 タクシーとお掃除ロボットとの共通点を見出そうとするならば,それらの対象には動物性がにじんでみえるという点であろうか.例えば前者のような人が運転している乗り物では,運転手という人間から動物性が波及してくる.つまり,ある乗り物にたいする言及は,それを運転・操縦する主体にたいする言及に,言葉づかいのうえでも相似するということだ.さらに,後者のようなロボットたちにおいては,自律的に動きまわるそれらの運動性に,動物を見つめるまなざしが機能することが示唆される.自分の意志(たとえそれがプログラムされたものであっても)によって自分自身の位置を決めるその自律性に,われわれは動物的の運動性を感じ取るのだ.

 とりとめなくいくつかの例を取り上げてみたけれど,やはり言葉である以上,絶対に厳密に使い分けがなされるなんてことはありえないし,その時々の情況や,個人の主観が効いてくる可能性は大きいだろう.主観――思い入れにより言葉の使い分けがなされるのだ.たとえば,人形やぬいぐるみは,その持ち主にとっては「いる」であるかもしれない.自分の家族や友人,ペットにたいして抱く愛着と同様の思い入れを,ぬいぐるみにたいして抱くひとびとにとっては.また,たんなる化学物質や物体,粒子にすぎない存在を,それを研究対象とする化学者や物理学者は,興味とある種の愛着をもって「いる」と表現することもある.ひょっとすると,生物学者は自分があつかっている細胞について「いる」というのかもしれない.数学を勉強する受験生は毎秒 3 cm で動く点 P にたいして「いる」を使うのかもしれない――あるいは小憎らしさを込めて.お掃除ロボットについても,勝手に動きまわる様子に,自身のペットに抱くような感情をもてばこそ「いる」なのかもしれない.このように,対象の運動性,動物性とは別に,おかれた環境や関心分野に特有の愛着,思い入れが,各人に固有の「いる」/「ある」の使い分けに影響しているように思われる.

 「言語なんてひとそれぞれだ」.それじたいは否定しがたい事実である.しかし,ここで見てきたように,どのように「ひとそれぞれ」なのかという問いには答えうるであろう.愛着だとか思い入れなどという,科学的な定量性なんてどこ吹く風の主観的観点によって.そしてこれを定量化しようという試みによって,かならずや失われる個別性が横たわっているとも,私には思われる.それは言語のもつ豊かさにほかならない.教育その他の「全国的」コンテンツによって画一化される言語,そして,言語は均質であるべきだと願う権力へのあらがいを,私は隠さない.

*1:現実にはそうなっているのかもしれないというのは,以前の記事で示唆したことであるが.