革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

震災直後の記憶(1)

 3.11の本震が東日本を襲ったとき,私は中学校の校庭で部活動をしていた.担任の教師(部活の顧問ではない)が何か騒いでいるのに気づいた.携帯電話を掲げて「地震!」と声を張り上げていた.緊急地震速報が届いたらしい.数秒ののち,足元に強い揺れを感じた.立っていられないほどの揺れだったので,私たちはしゃがんで揺れが収まるのを待った.ふだんの地震同様,すぐに弱まるだろうと思っていたが,いっこうに揺れが収まる気配はなく,それどころか勢いはますます激しくなっていった.地鳴りのようなものが聞こえた.雷鳴も聞こえたような気がする.この世の終わりでも到来したかのような恐怖を感じた私は,恥ずかしながらも「助けて!」と叫んでしまった.何が落ちてくるでも崩れてくるでもない,安全な場所である校庭にいて,それでも大地の揺動に己のまったき無力を知った.だから私は叫んだのだ.数分にもわたって続いたその揺れは,やがて止んだ.

 自転車での帰路,ショーウィンドウのガラスが割れて落ちてしまっている店なども見られたが,派手に崩れた建物などは見当たらなかった.(当時住んでいた)アパートの室内では,家具やら家電やら書籍やら食器やらが散乱してしまい,足の踏み場もない状態になっていた.私が帰宅してすぐに親も帰ってきた.軽く見聞したが,幸い,建物じたいは全壊も半壊もすることがなく,内部を何とかすれば住みつづけることのできる状態だった*1.ただ,その時点では水道・ガス・電気といったライフラインが停止してしまっていたこともあり,夕方頃に,親の実家(自動車で30分ほど離れたRという町にある)に一時避難することになった.というのも,そこでは井戸の水を使えたし,ガスはボンべから引っ張ってきて使っていたので,インフラへの地震の影響は最小限であったからだ*2 *3.とはいえ,当時にしておそらくすでに築100年近かったその古民家(?)の変わらぬ姿をこの目で確認するまでは,倒壊してしまっているのでないかと気が気でなかった*4.水,ガスはよかったが,さすがに電気は使えなかった.そのため,夜は仏壇からもってきた蝋燭を灯りとしていた.

 私のアパートの停電や断水は,一週間ほど続いたようであった.地域によっては二,三日以内に復旧したところもあったので,私のところは比較的遅いほうであったと思う.R町ではすぐに電気が復旧したと記憶している.そこは本当に田舎で,周りには田畑しかなく,同年代の子どももおらず,しかも放射性物質が飛んでくるとかで外に出ることもままならず,きわめて退屈であった.テレヴィをつけても震災関連の気の滅入るようなニュースしかやっていなかった,見るたびに増える死者数,しだいに明らかになる各地の被害,原発が爆発した,放射性物質が飛散した,基準値は何シーベルトだ,何ベクレルだ…….コマーシャルはACの「ぽぽぽぽーん」と「こだまでしょうか」がひたすら繰り返された.本当に何もすることがなかったので,その日の新聞を隅から隅まで読破してみるなんてこともした.震災直後は原材料等のリソース不足のためか,きわめてページ数の少ない新聞が届いた.しかし今になって思えば,ライフラインも復旧していないなかで,新聞がふだんどおり届いたというのは驚きである.マスコミュニケーションとしての新聞社の意地,情報インフラを下支えする配達員の矜持,そういったものが,あの薄い新聞には込められていたのかもしれない.

 私のまわりでは大きな怪我を負ったひとはいなかったし,誰も死ぬことはなかった.ただただ,いつ終わるともしれない非日常の不安と倦怠にさいなまれていた.

*1:内陸部に住んでいたので,津波の被害はなかった.

*2:これはいま思えばそうだったというだけで,当時の私たちがそこまで考えていたのかはわからない.

*3:これは,ライフラインが都市と一体化していない田舎ならではの事情だったと思う.

*4:私見ではあるけれど,いたるところにガタがきているような古い日本家屋は,むしろ柔構造的なメカニズムで耐震性が宿るのではないかと思っている.