革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

ある冬の朝に

 12 月。いま、ここは冬だ。

 私は分厚い板ガラスを 2 枚も備えた戸に手をかけて、思い切り引っ張る。戸はゴロゴロと緩慢にレールの上を走りだし、それに接触している人間が一人通るのに必要十分と思われる幅の空間を作り出したあたりで動きを止める(私が引っ張るのをやめたのち、慣性にしたがって幾分かはひとりでに運動したが、摩擦力はやがて戸に身動きをとらせなくした)。とたんに、寒冷な空気が勢いよく室内に流れ込んでくる。あわてて私は引き戸をピシャリ! と閉じ、屋内の快適な環境の保護につとめる。昨晩は久々にストーヴに火を入れたのだ。せっかくの暖気が冷気と置換されてはかなわない。いまや石油は僅少であり、あと 2、3 本ターキーを食べている間にも油田は涸れはてるだろうといわれている。こうなれば核を活用するほかないですよと(半分、いや 3 割)冗談めかしてフラットの大家に言おうものなら、数日は彼女の機嫌が最悪になるだろうが(大家は大の原子力嫌いなのだった。去年なんてガスを止められかけたから困った)。おとなしく寝ていればいいものを、話し相手が私くらいしかいないものだから、日ごろの鬱憤も私にしか指向しないのだ。

 ここしばらくはひときわ強烈な寒波が押し寄せており、外気に曝された体表からは、ふだん以上に熱が奪われるのが知覚できた。私はポケットからライターと青い小箱(踊る女の姿が描かれている)を取り出す。小箱から 1 本を引き出し、咥える。ライターを持つ手がかじかむ。筋肉がぶるぶると震えるなか、腕の筋肉は何度か大きく収縮し、掌に包まれた装置を起動させようとする。なかなか点かない。オイルが足らないのではないか? 何度も、カチッ、カチッ、カチッ、と、静かな朝の空には石油文明の終焉する音が響きわたる。11 回目のクリック音とともに、所望するところの熱エネルギーが立ち現れた。すかさず、口もとの白い棒に引火させると、紫煙が立ち昇った。

 冬の朝に吸う煙草は美味い。澄みきった大気の中、冷たい空気が煙を冷やし、より豊かな薫りを楽しめる(ような気がする)。おフランス産の煙草などとんだ気障野郎かと悪態もつきたくなる気持ちはよく解かるが、しかし、なかなかどうして、美味いのである。家畜のクソとも、ボニート・フレークともいわれるその独特の薫りは、じつに味わい深い。ときおり、無性にその喫味が恋しくなり、吸いたくなるのだ(常用はしなくてもいいが)。とはいえ、度重なる増税の結果、国内で買おうとすれば 1 箱で 40 ドルもするような時代だから、密輸するか強盗するか(あるいは禁煙するか)のどちらかしかなかった(しかし禁煙はありえない)が、貿易もままならない今、私は後者を選ばざるをえない。当然、取り締まる者はおろか、店を守る者などいるはずもなく、私はこうしてのんびりと煙をくゆらすことができているというわけだ。

 ベランダからビーチの方を見下ろす。本当に、暖かい時季には海水浴客で賑わっていたのだろうかと疑うほど、その面影は失われていた。今はただ固く白い地面から、骨組みのみになったパラソルが 1 本、生えているだけだった。かつてそこには、ストーリーがあったことを思い出させる。ちょうど炭酸水のように、いたるところで色恋が囁かれては弾けた、あの時代。コップの中にはそれぞれの物語があった。誰それが誰それにお熱だの、醜い愛憎劇の末に殺されただの、ビーチを歩けばそんな話はいくらでも聞こえてきた、あっけらかんとした時代だ。夏の熱は人々を非日常へと誘拐/融解し、浮き足立った人々に幸福の甘さも、失敗の苦さも味わわせてくれたものだった。

 こうして記憶は、煙とともに冷たい大気へと溶けだしていく。ますます澄んでいくこの空に、非力な、しかし確実な毒素をまき散らすことこそが、明けの見えないこの夜に私ができる、精一杯の抵抗なのかもしれなかった。

 12 月。いま、ここは冬だ。世界一小さな大陸の、そして世界の冬である。